「良い考え」「悪い考え」を擬人化してみると
2012 / 05 / 10
学生時代、江戸時代の文学を研究していました。
中でも、黄表紙と呼ばれる大人向けの絵本(今で言う漫画のようなもの)が大好きでした。黄表紙の挿絵はユニークなものが多いのですが、中でも印象的だったのが、山東京伝の『心学早染草(しんがくはやそめぐさ)』。人の心の中にある気持ちを擬人化して「善玉」「悪玉」と呼ぶ、という視点が斬新でした。
上の絵では、花魁のもとから帰ろうとする客の袖に、悪玉が「もっと居続けようよ」としがみついています。反対側では善玉が「やっぱり帰らなくちゃだめだよ」と引っ張っています。悪玉3人に対して善玉1人ですから、この客は本心は花魁のもとにいたいのでしょう。
これは江戸時代の黄表紙の話ですが、今でも、心の中のもやもやした気持ちを擬人化してみると、すっきりすることがあります。
私たちのような自営業者は生活の浮き沈みが激しいので、わけもなく落ち込んだり自信を無くしたりすることもあります。でも、そのような時も「落ち込み玉」とか「悲観玉」のようなやつらが勝手に自分の心の中に入ってきて気持ちを荒らしているだけだ、と考えるようにすれば、少し気持ちが晴れて来たりもします。
日本の昔話に出てくる鬼や妖怪も、人間の心の中にある邪気を擬人化したものだと聞いたことがあります。(能で女性の妄念が鬼として姿を表すのは典型的ですね)だからこそ、節分行事を始めとする鬼や妖怪を追い出す行事も、自分たちの心を綺麗にしようという目的があったのかもしれません。
現代では、さまざまな心理療法が普及してきているものの、「みんなでわいわい邪気を払う」というシーンは少なくなってきているかもしれません。個人的には、邪気払いをもっとオープンなものにすれば、心の病も少し減るのでは…と思っていたりもするのですが。
普遍的な美人の基準とは
2012 / 04 / 03
花魁の研究をしていた学生時代から、
浮世絵の美人画や明治時代の写真を見る機会は多くありました。
美人の基準は時代によって変わると言われます。
特に、江戸時代の美人画を見ると、
ずいぶん今理想とされる美人像と違うなぁと思う方も多いはずです。
ただ、言えるのは、
「その人が『美人』として描かれている」ことだけははっきりわかるということです。
それは、
「わざわざ浮世絵に描くのだから美人に違いない」
という仮説から類推される場合もありますし、
「このたたずまいや雰囲気なのだから美人に違いない」
という感覚的なものから察する場合もあります。
ここで強く言いたいのは
「たたずまいや雰囲気がなんとなく美人っぽい場合、
たとえ一般的な美人の感覚から外れていても美人だと認識される可能性があり得る」
ということです。
…ということは、
お化粧以上に姿勢や仕草に気をつけなくてはいけないということですね。
マインド的には、自信や意思の強さも「美人っぽく見える」秘訣かもしれません。
参考までに喜多川歌麿の「歌撰恋之部 稀ニ逢恋」を載せてみました。
現代の美人の基準とは若干違いますが、この女性が美人だということは何となくわかりますよね。
なぜ私は「花魁」に興味を持ったのか
2012 / 04 / 01
このブログでも何回かお話したのですが、
『月刊企業診断』という雑誌で
「花魁マーケティングの世界」という連載をさせていただいています。
なぜ「花魁」について書くことになったかというと、
学生時代、日本文学や日本文化を学んでおり、
花魁に関する研究をしていたからです。
とはいえ、
私自身はどう見ても
「セクシー」とか「妖艶」とかいう言葉とはほど遠いタイプなので、
「なんで花魁?」
と聞かれてしまうことが多いです。
私は、もともと、
「人間が『生きる』という目的のために
最大の力を発揮すること」
に興味を持つ傾向がありました。
なので、高校の世界史の時間に先生がこんな話をした時、
私は非常に感動しました。
「殷の青銅器に精緻さは、現代の人間の手では再現不可能だと言われています。なぜそれができたかというと、職人が完璧なものを作らないと処刑されたからです。人間は死ぬか死なないかの状況に追い込まれると、何でもできるようになるんです。」
大学に進んで日本文学を学ぶことになり、
たまたま江戸時代の文学のゼミに入りました。
歌舞伎や文楽(浄瑠璃)を見てもわかるように、
江戸時代の文化や文学には、
花魁(あるいはその他の遊女)がつきものです。
男性を翻弄する美しく魅惑的な女性たち。
でも、その出自は不遇なことが多く、
また、彼女たちは(その仕事の特性上)常に病や死と隣り合わせです。
そして、彼女たちが普通の女性として生きるには、
どこかの金持ちの男性に見初められ、身請けされるしかありません。
だから、彼女たちには外見や教養を磨き続けるしかないのです。
つまり、彼女たちの美しさや魅力は
「生きるための美しさ」「生きるための魅力」
なのではないかと思うのです。
お時間がありましたら、ぜひこのリンク先をご覧ください。
http://www.wagaraga.com/headline/oiran-kamuro-yuukaku/
これは個人的な感覚かもしれませんが、
花魁の堂々としたたたずまいから感じられるのは、
悲壮感というよりも女性本来の強さなのではないかと思います。
日本に公娼制度があった事実や売買春の是非について、
私は意見できる立場ではありません。
ただ、
生きるために自分自身を磨き続けた花魁たちの姿には、
現代の私たちが勇気づけられるものがあるのではないかと思います。